写真は「ヒメアカタテハ」。11月18日に撮影しました。この蝶は成虫で越冬するそうです。まさしく「冬の蝶」ですが、けっこう元気に飛んでいました。場所は、隅田川の護岸裏の空き地です。(「ヒメアカタテハ」は、このブログの07年5月14日の記事にも、我が家の庭での写真が出ています。)
<「厠」・「厨」>
ことの起こりは、今回のブログ句会の「選句と評」です。謳外さんの句、9「晩秋や厠の外に鳩歩く」に、たみこさんから質問が寄せられました。
『なぜ「厠」なのでしょうか? 厠などという言葉を使わなくても…と思うのですが。』
これに、誰からも回答・意見がありませんでした。そこで、私(泰二)は、私見をたみこさんにメールしました。私は「なぜ『厠』などという古い言葉を使うのか」という質問だと思って、そのことに対する私見を述べたのです。それは、私の誤解で、御質問は「なぜ『厠』などという尾籠な場所を詠むのか」ということだと、メールの遣り取りで分かったのですが、私にとっては、いろいろ考える良いきっかけになりました。
<俳句では、なぜ「厠」・「厨」などと、古い言葉を使うのか。>
以前、俳句では、「ガラス」と言わず、「玻璃(ハリ)」と詠むことが多かったのですが、雅に過ぎるという意識が強くなってきて、今では、特殊な狙いの時以外には、「ガラス」と詠むようになっています。しかし、「厠」「厨」は相変わらず、このまま使われることが多いようです。なぜでしょう。
そこで、「厠」と言わないのなら、なんと言えば良いか考えました。「トイレ」「便所」「御不浄」「お手洗い」「WC」「雪隠」・・・。どれも、俳句で使うにはしっくりしません。生々し過ぎたり、古めかし過ぎたりです。(禅寺を詠む時には「東司(トウス)」がけっこう使われていますが。)
「厨」も、「キッチン」「台所」「お勝手」・・・どれも、しっくりしません。「調理場」「炊事場」「厨房」となると、食堂・レストランなどのイメージです。
そういう訳で、止むを得ず、「厠」「厨」を使っているのだろうというのが私の結論です。
しかし、それでいいのかという疑問も湧きます。俳句という限られた領域だけで使われている言葉に頼っていたら、俳句は狭い範囲の人にしか通用しない普遍性のない文芸に止まってしまうのではないかという疑問です。
他の例として「蝌蚪・カト」をあげてみましょう。「おたまじゃくし」は江戸時代には「蛙の子・カハヅノコ」「蛙子・カヘルコ」と詠まれていましたが、虚子が「蝌蚪」と詠んで以来、それが普通になってしまいました。しかし、中には、飯田龍太さんのように「あるときはおたまじやくしが雲の中」と詠んで、「蝌蚪」は使わなかった人もあります。
そして、その龍太さんは、「厠」も「厨」も使っていないのです。「厠」は尾籠なので詠まなかったとも言えるのですが、「百戸の谿」に「凍光や帰省す尿を大胆に」がありますので、尾籠説は通らないでしょう。
龍太さんは「蝌蚪」「厨」「厠」などについて、改めておっしゃったことはありません。しかし、言葉に厳しい人でしたから、理論として唱えなくとも、感覚的に拒否なさったのではと思えます。
私も「蝌蚪」は使いませんが、「厨・厠」は便利なので、つい、使ってしまいます。しかし、これからは、使うにしても、よくよく考えてからにしたいと思います。