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ブログ句会(第四回)出題


 写真は「苔の花」。苔の種類は「銭苔」。
 苔は隠花植物なので、花はなく、「花」と呼ばれるのは精子を出す「雄器床」と、それを受ける「雌器床」です。写真は「銭苔の雌器床」。
 「苔の花」は俳句の方では、夏の季語です。






☆ 第四回ブログ俳句会・出題 ☆ 

 皆が作り手で、皆が選者の俳句会です。
 フリーの方も歓迎です。どなたでも、自由に御参加ください。
<出題>
 ○投句内容 植物(草・木・花・実など)を詠んだ秋の句。
(「この樹登らば鬼女となるべし夕紅葉・三橋鷹女」のように植物の季語でも良いし、「朝寒や菜屑ただよふ船の腹・杉田久女」のように、植物と季語が別でも良い。) 
○投句句数 お一人三句まで。(一句でもOK)
 ○投句期限 9月7日
 ○投句方法 泰二のメールアドレスをご存知の方はEメールで出句してください。
  そうでない方は、この記事の下のcommentsをクリックし、お書き込みください。その際、メールアドレスも御記入を。

 ◎全ての投句をまとめ、番号を付け、無記名で並べた「出句表」を9月9日、このブログに公表します。「選句」「評」についてはその章でご覧ください。


taiji-m * ブログ句会 * 22:18 * comments(3) * trackbacks(0)

季語の本意



 写真は「クサカゲロウ」。この卵が「優曇華」です。
 幼虫が「蟻地獄」なのは「ウスバカゲロウ」。親類ですが、別のものです。




 ☆予告☆
 次回のブログ句会は9月1日、出題です。
 お楽しみにお待ちください。

<「残暑」は「暑し」ではない。>
 この前お話した「ぬかご」のメール句会、9回目をやりました。題は「残暑」「新酒」「桃」。どれも難しい題でしたが、ここでは話を「残暑」に絞ります。
「残暑」あるいは「秋暑」は、「暑さ」と重なりがあります。ことに今年のように、立秋過ぎて暑さが厳しいと「酷暑」のイメージさえあります。しかし、季語としての「残暑」「秋暑」は「暑さ」「酷暑」とは別の情感があるはずです。
次の句は、出句46句の中の一部ですが、この中に「残暑」・「秋暑」を「暑さ」「酷暑」とごっちゃにしている句がないでしょうか?
A秋暑し日の斑の遊ぶ男坂
B秋暑し売り出しの旗垂れしまま
C秋暑し厨に残る酢の匂ひ 
D夫と居る昼の静けさ秋暑し
E秋暑し観音巡る九十九折り
Fすりきれしブックカバーや秋暑し
G鉛筆の芯折れ易き残暑かな
H狂ひ咲く八重山吹の秋暑かな
I飼猫のじっと目を閉づ残暑かな
「暑さ」・「酷暑」と置き換えても成り立つ、あるいは、その方が句が活きる、それだったら、「残暑」の題詠としては??ですね。
季語の本意を掴むこと、本意を活かして作句すること、心掛けたいものです。
taiji-m * 季語について * 21:32 * comments(0) * trackbacks(0)

禍転じて福となす。


写真は「庭石菖」、俗称「朝鮮あやめ」。北米産の雑草。芝地に生えて邪魔者扱いされる草ですが、小さいけれど品のある花を着けます。

<俳句は精神安定剤>
(新聞に夏井いつきさんのことが紹介されていた。)
「人生で起こることは、すべて俳句になる」という。運転する車が追突され、横転した時、運転席側が下になり、真上の助手席の窓から、救助の人たちの顔が見えた。その時、思った。「これで五十句は詠める」。
<泰二のコメント>
私は、いつきさんほど、意欲的ではないが、嫌なこと、不満なことに会った時、「これは俳句になるな」と思うようにしている。電車の中で、イヤホンから、音楽の屑を撒き散らしている若者。歩きながら煙草を咥え、煙を振りまいてゆくジイサマ。そんな時、俳句の対象として見つめると、客観的な視線になり、不快さがいくらか乗り越え易くなる。風邪を引いて寝ていなければならないときなど、その風邪を題材に数句詠むと、気分も落ち込まずに済む。まさに「俳句は精神安定剤」だ。
taiji-m * - * 11:37 * comments(1) * trackbacks(0)

外から見た俳句

写真は「三つ葉の花」に止まるヒラタアブ。三つ葉は花が着く前に食べてしまうので、この花も「余り見ない花」でしょう。

◎詩人・歌人・武道作家のそれぞれの世界から見た俳句観を紹介します。 那珂氏・俵氏のエッセイは「二十世紀名句手帳」から、多田氏のエッセイは「朝日新聞」からの引用です。

<外から見た俳句>

<詩人 那珂太郎氏のエッセイから>
「詩作品の実質は読者によつてつくられるといつていい。作者は読者のよみを挑発することばの装置をしつらへるにすぎない。しかも読者の、経験(実経験や読書経験)などを基にした想像力によつて、はじめて作品は成り立つ。殊に俳句のやうな短小詩型の場合、読者によつて作られる領分がきはめて大きいといはねばならないだらう。」

<歌人 俵万智さんのエッセイから>
「(自作の俳句を挙げて)私は常に物語を求め、そしてあわよくば、その物語における自分の『思い』を述べようとしている。五七五の中で、それをやろうとするから、ものすごく窮屈になる。『思い』なんて個人的なものより、もっと普遍的なものを見つめて、その結果それを描いた自分というものがついてくればいい。そんな潔さが俳句には必要なのだろう。いや、その結果の自分、なんてことを考える私は、やはりまだまだ短歌的であるに違いない。(略)
 よく『短歌と俳句とは、どう違うんですか。どちらを作ればいいか、迷っています』といった質問を受ける。(略)あえて言えば、自分の『思い』を伝えたいなら、短歌を選ぶといいのではないかと思う。別に自分なんかの思いを、人さまに読んでもらいたくはない、という気分の人は、とりあえず俳句だろう。」

[参考]高浜虚子「客観写生ということに努めていると、その客観写生を通して主観が浸透して出てくる。作者の主観は隠そうとしても隠すことが出来ないのであって、客観写生の技量が進むにつれて主観が頭をもたげてくる。」
 万智さんの文章の前半はこれと共通していると思うが、後半では、これを突き抜けているようだ。(泰二)

<多田容子さんのエッセイの要約>
通常は関連して動く筋肉を、意識して、それぞれ独立して動くように鍛錬すれば、動きが自由になり、敵に読まれない。俳句でも初心者は、後の言葉が前の言葉につられがちだ。例えば「なでしこを賞でつつ酔うて寝てしまふ」という具合に詠むだろう。それを芭蕉は「酔うて寝むなでしこ咲ける石の上」と詠んでいる。「酔うて寝む」と「なでしこ咲ける」は、まるで無関係のように切れている。最後の「石の上」も予測しがたい。各語が分離独立しているから、句に自在な展開が生まれ、内容も濃くなる。


「意外性と飛躍を生む切れ」の例としては、芭蕉の「菊の香や奈良には古き仏たち」が徹底している。「酔うて寝む〜」では、中七下五が倒置で上五への繋がりを残しているが、この句では、上五ははっきり切れ、完全な二句一章となり、中七下五の意外性と飛躍を生んでいる。(泰二)

<狛犬さんの反論(要旨)>上の多田さんの論旨を良しとすると、無数の俳句が生まれることになります。
例えば「菊の香や奈良には古き仏たち」という句で、菊の香の代わり別の花の香りを置き、次に奈良の代わりに別の土地の名を置く、そして古き仏の代わりに何か別のものをもってきて合わせる。この組み合わせで数千の句が出来ます。
この任意の組み合わせはフレーズの間に論理的関連性が無いものの方が多いので、意外性と飛躍という点でも、多田さんの論旨に適っていると思います!?

<泰二のコメント>
狛犬さんの「反論」は、数学的組み合わせとしては正しいのですが、大前提を見落としています。・・・

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taiji-m * - * 17:37 * comments(0) * trackbacks(0)
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