写真は「三つ葉の花」に止まるヒラタアブ。三つ葉は花が着く前に食べてしまうので、この花も「余り見ない花」でしょう。
◎詩人・歌人・武道作家のそれぞれの世界から見た俳句観を紹介します。 那珂氏・俵氏のエッセイは「二十世紀名句手帳」から、多田氏のエッセイは「朝日新聞」からの引用です。
<外から見た俳句>
<詩人 那珂太郎氏のエッセイから>
「詩作品の実質は読者によつてつくられるといつていい。作者は読者のよみを挑発することばの装置をしつらへるにすぎない。しかも読者の、経験(実経験や読書経験)などを基にした想像力によつて、はじめて作品は成り立つ。殊に俳句のやうな短小詩型の場合、読者によつて作られる領分がきはめて大きいといはねばならないだらう。」
<歌人 俵万智さんのエッセイから>
「(自作の俳句を挙げて)私は常に物語を求め、そしてあわよくば、その物語における自分の『思い』を述べようとしている。五七五の中で、それをやろうとするから、ものすごく窮屈になる。『思い』なんて個人的なものより、もっと普遍的なものを見つめて、その結果それを描いた自分というものがついてくればいい。そんな潔さが俳句には必要なのだろう。いや、その結果の自分、なんてことを考える私は、やはりまだまだ短歌的であるに違いない。(略)
よく『短歌と俳句とは、どう違うんですか。どちらを作ればいいか、迷っています』といった質問を受ける。(略)あえて言えば、自分の『思い』を伝えたいなら、短歌を選ぶといいのではないかと思う。別に自分なんかの思いを、人さまに読んでもらいたくはない、という気分の人は、とりあえず俳句だろう。」
[参考]高浜虚子「客観写生ということに努めていると、その客観写生を通して主観が浸透して出てくる。作者の主観は隠そうとしても隠すことが出来ないのであって、客観写生の技量が進むにつれて主観が頭をもたげてくる。」
万智さんの文章の前半はこれと共通していると思うが、後半では、これを突き抜けているようだ。(泰二)
<多田容子さんのエッセイの要約>
通常は関連して動く筋肉を、意識して、それぞれ独立して動くように鍛錬すれば、動きが自由になり、敵に読まれない。俳句でも初心者は、後の言葉が前の言葉につられがちだ。例えば「なでしこを賞でつつ酔うて寝てしまふ」という具合に詠むだろう。それを芭蕉は「酔うて寝むなでしこ咲ける石の上」と詠んでいる。「酔うて寝む」と「なでしこ咲ける」は、まるで無関係のように切れている。最後の「石の上」も予測しがたい。各語が分離独立しているから、句に自在な展開が生まれ、内容も濃くなる。
「意外性と飛躍を生む切れ」の例としては、芭蕉の「菊の香や奈良には古き仏たち」が徹底している。「酔うて寝む〜」では、中七下五が倒置で上五への繋がりを残しているが、この句では、上五ははっきり切れ、完全な二句一章となり、中七下五の意外性と飛躍を生んでいる。(泰二)
<狛犬さんの反論(要旨)>上の多田さんの論旨を良しとすると、無数の俳句が生まれることになります。
例えば「菊の香や奈良には古き仏たち」という句で、菊の香の代わり別の花の香りを置き、次に奈良の代わりに別の土地の名を置く、そして古き仏の代わりに何か別のものをもってきて合わせる。この組み合わせで数千の句が出来ます。
この任意の組み合わせはフレーズの間に論理的関連性が無いものの方が多いので、意外性と飛躍という点でも、多田さんの論旨に適っていると思います!?
<泰二のコメント>
狛犬さんの「反論」は、数学的組み合わせとしては正しいのですが、大前提を見落としています。・・・
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