上の写真の句の季語は
「ものの芽」 (春)です。
前回、精一さんから、「季語は必要か」という問いがありました。そのことを説明したいと思います。
多くの結社(俳句の方では、グループを「結社」と呼びます。)は、理屈抜きに、約束事として季語を入れると決めています。「古臭い!」と嫌われそうな側面です。
しかし、これには、千年を越える積み重ねの知恵があるのです。試しに、季語なしで、俳句を詠んでみてください。力も深みもある句を作るのは、かなり難儀です。大岡信さんの「百人百句」でも、取り上げられている無季の作者は百人中六人に過ぎません。
特別な感性や才能を持っている人は別にして、季語を使った方が良い句が出来易いと言えるでしょう。
季語には、芭蕉からでも三百年の積み重ねがあります。例えば「春の夜」には、芭蕉・蕪村・子規・虚子・・・が詠んだ「春の夜」の句のイメージが沈殿しています。貴方が「春の夜」と詠んだ途端、三百年も積み重ねられてきたイメージが生き返るのです。これを使わない手はないと思います。歳時記でも、多くの例句を並べ、このイメージの積み重ねの一端を示そうとしています。
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