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俳句なんでも、Q&A。

写真は「クレソンの花」。クレソンを食べるのは、花の咲かないうちなので、花を見ることは珍しいと思います。前々回の「アサツキの花」に続く《あんまり見ない花シリーズ》です。

<ブログが欠伸してます。>
ブログ句会を始めてから、句会関係以外ののコメントが、ほとんど無くなりました。句会から次の句会までの二か月間、開店休業状態で、ブログが欠伸をしそうです。
そこで、「俳句教室」の本来に立ち返り、 「質問なんでも受け付けます」の看板を掲げようと思います。皆さん、遠慮や引っ込み思案を捨てて、俳句について、なんでも質問してください。待っています。

 ◎上の看板を掲げたところ、早速、質問があり、三件になりましたので、この頁にまとめてみました。(さらに追加一件あり。)(☆またまた、追加あり。)(さらに追加あり。)(七件目の追加あり。)


☆句会の先生から、「紫陽花を『七変化』ともいうが、これは俳句には用いないように」と言われました。そうなのでしょうか?(烟水)

☆泰二のコメント
ご質問を二つに分けて考えてみます。
 句会の先生、あるいは結社の主宰から「俳句ではOOしなさい」「XXしてはいけません」と言われたらどうするか?
A、先生が、頑固、陰険、または権威主義的な人の時。
その件に付いて、反論は勿論、質問もしない方が身のためです。疑問に感じ、間違いだろうと思っても、先生の前では「はい」と言って、それを守りましょう。その先生の目の届かないところで、自由な詠み方をすればいいでしょう。
B、先生が開放的で拘りのない人柄の時。
大いに質問しましょう。「なぜそうなのか教えてください」「虚子に〜という句がありますが、それはいいのですか?」「もし『七変化』と詠んでいいときがあればどうゆう場合ですか?」。先生はあなたの積極性を高く評価してくれるでしょう。
季語「紫陽花」には、傍題として「四葩(ヨヒラ)」、「七変化(シチヘンゲ)」があるが、これらを句に詠むときの注意は?
初心者は、「あぢさゐ」は4音、「よひら」は3音、「しちへんげ」は5音という音数によって、都合の良いものを使おうとします。先生はこれを戒めたのでしょう。
こういう時は歳時記の例句を見るのが定石です。何冊か歳時記を見ると、例句の殆どが「あぢさゐ」で、「よひら」が一句くらい、「しちへんげ」は殆どありません。だから、普通なら「紫陽花」で詠み、特別な感じを出したければ「四葩」を使う。
「七」とか「変化」の意味を活かしたい特殊なときだけ「七変化」にする。というのが無難なところでしょう。
(広辞苑では、「七変化」は「ランタナ」のことと出ています。やはり、使わぬ方がいいようです。)

☆よく「季語」が動くと言われます。その場合どうしたらいいでしょう。(けいこ)
私は先に季語以外の部分が出来、そこへ季語を選んで付けるという作り方をよくします。その句が季語が動くと批評されることがあります。私には実感があるのにという不満が残ります。どうしたらいいでしょう。


☆泰二のコメント。
岸本尚毅は、「どんな季語を据えるかは作者が決断するしかないのです。その句にどんな季語がふさわしいかは理屈では決まりません」と言っています。私も、一般的に、こうしたらいいという方法はないと思います。
ただ、こうすると失敗するという場合は挙げられます。
,△觀平Г鮓て句が浮かんだ場合、その場に在ったものを季語として入れる。こういう人は「季語が動く」と批判されると、「だって実際見た通りなのだから」と居直ります。
⇒屈で結び付くもの、常識で連想されるものを季語にする。例えば、「天高し槌音響き棟上る」のように、「棟」のように高いものに対して「天」、「棟上げ」に相応しく「晴天」、「音響く」に対して「秋の澄んだ空気」というわけで、「天高し」はボンド付けしたくらい、動かない季語である。しかし、句はまったく面白味がない。
けいこさんの季語の付け方がこの´△任覆ったら、一週間くらいその句を放っておいていくらか客観的に読めるようになってから、見直して決めるといいでしょう。


☆「三段切れ」はいけないと言われました。「三段切れ」について教えてください。(そよ風)

☆泰二のコメント。
「切れ」の問題は、俳句の前身の前身、室町時代の「連歌」からありましたが、それを話すと長くなるので、省略。
いきなり結論からお話しましょう。
俳句が長年作り続けられた中で「すきっリとして、しかも、しっかりした読み応えがある句」の定石が見つかりました。「一句のどこか一箇所にだけ[切り]を入れる」という法則です。
「切れ」がないと、句に締まりがありません。二箇所以上切れると、句がギクシャクし、焦点も割れます。という訳で、 「三段切れ」どころか、「二段切れ」もバツ!なのです。(この「二段切れ」の代表が「〜や〜かな」です。)
これで一応お終いなのですが、実作では、そうすっきりとはゆきません。これ、また、複雑な問題をはらむのですが、ここでは、初歩的、実用的な三点を挙げます。
〔昌譴老擇だ擇譴魎兇犬気擦襪里任垢、切れているとも、流れているとも感じられ、最後は作者の感覚次第というところです。どちらとも、自分に都合良く考えていい場合が多いです。
∪擇貉「や」の切れは、昔は強く意識されました。だから上五や中七で「〜や」を使ったら下五は「止めぬよう、流れるように」詠んだのです。
「香水やまぬがれがたく老けたまひ・後藤夜半」
また、上の,鰺用して、名詞で軽く流します。
「秋たつや川瀬にまじる風の音・飯田蛇笏」
しかし、実は、「や」があるのに下五を動詞などの終止形で終わっている例が多数あります。
「春風や闘志いだきて丘に立つ・高浜虚子」
これは、「や」の切れの意識が弱くなったことと動詞などの終止形に強い切れを感じなくなったことが関係していると思います。
実用的には「や」に対して下五の結びは「かな」・「けり」以外なんでもOKというのが実情です。
2叱泙髻屐舛な」で止める場合、途中で「切り」を入れない方がよい。これは、実作でも、かなり広く守られていますので、やらない方がいいでしょう。


☆季語の漢字についてお教えください。(ウーフ)
 片影と片陰、片蔭の使い分けがよく分かりません。
 合本俳句歳時記第三版(角川書店編)には、片蔭、日陰、片かげり、しか掲載されていませんが、片影を用いた有名俳人の句はあるのでしょうか。


☆泰二のコメント
今まで、私は、なんとなく、「影」は形で「陰」は場所、くらいに思ってました。
ご質問を受け、早速調べてみました。
日本語で「かげ」は、元は「光」。それから、「光によって表れる物の形」となり、「水面や鏡に映る物の形」、さらに「物が光を遮ることによって出来る形」となったようです。
漢字の「影」は古くは「景」で、これは「日光」。これが日本語と同様に「物が光を遮ることで出来る形」の意味にも使われ、両者を区別するために、後者は「影」と書くようになりました。
「陰」は「山の北側の日の当たらない方」の意。それから、「日の当たらない暗い場所」の意味になりました。
「蔭」は「陰」+「草」で、「茂った草の陰」の意味ですが、「陰」とほとんど同じに使われるようです。
「翳」もありますが、抽象的、心理的な意味で人目の届かぬところを表すようです。

ここで、俳句の「かたかげ」の話になります。これは、「夏の日差しを避けられる場所」の意味が強いので、「片陰」が正解でしょう。「片蔭」も同意です。例句のほとんどはこのどちらかです。
「片影」は、やはり意味が通りにくいので用例は少なく、私の見かけたのは沢木欣一の一句だけでした。
「緑イン」の場合、広辞苑では「緑陰」ですが、歳時記では全て「緑蔭」です。これは「蔭」が「草の陰」なので、木々の陰である緑蔭に相応しいからでしょう。

ご質問のお蔭で、私も勉強になりました。

☆字余り、字足らずについて教えてください。(白い鴉)
中7の字余りは良いが、字足らずはいけないと聞きましたが、どの程度まで許されるのですか?上五、下五についても教えてください。


☆泰二のコメント
まず、基本からお話します。
五・七・五の定型は、字数でなく音数だと言われます。もう少し突き詰めて言えば、発音のリズムなのだと思います。口ずさんで気持ち良く収まれば良いのです。(指を折って数えているようでは駄目です。口ずさんでリズムを感じ取る習慣を付けてください。)しかしこの「気持ち良さ」には個人差があるので、作者によって違いが出ます。中村草田男のように、言いたい思いの方を優先して定型の崩れも敢えて冒す作家もあります。
江戸時代、談林派は目新しさを重んじたので、字余りが横行しました。芭蕉も若いころ「艪の声波を打って腸凍る夜や涙」とか「枯枝に鴉のとまりたるや秋の暮れ」(後に「とまりけり」とした。)とかやっています。後に「詩としての俳諧」を自覚するにつれ定型に収まってゆきます。

次に、実際的な対応です。(初級編)
字足らずは、一切やらない方がいいです。
字余りも出来るだけやらないに越したことはありません。どうしても余るときは、上五に持ってゆくのが無難です。(ただし、最後が助詞の字余りは不可です。例「五月闇の」「青葉潮に」)
一番、収まりの悪いのは、中七の字余りです。これは禁じ手です。

☆字余り・字足らず〜定型についての質問です。(うーむ)
|單沈〇劼気鵑龍臀検屬燭泙靴い力叩廚砲六余りの句が多く、中には上七や下七の句も見かけます。
「フルーツポンチのチェリー可愛いや先ずよける」(七・七・五)
「戦争がいつも何処かに青いか地球」(五・七・七)
このような字余りをどうお思いですか。
∋笋涼里辰討い詛亢腓篭剖呂ですが、七・七・七は見かけたことがないように思います。なぜでしょう。


☆泰二のコメント。
|單沈〇劼気鵑亙務覆任后澄子さんは、その発想からして尋常ではないので、それを支えるリズムも尋常では表現が収まらないのでしょう。字余りだけでなく、字足らず、句跨りも多いです。
「新聞と新聞紙の秋の暮」五・六・五
「原爆落とされし日の屋上の望遠鏡 」十一・五・六
「先生ありがとうございました冬日ひとつ」四・十一・六
学ぶべきは、その発想の飛躍で、それを抜きに、句形の字余りだけを真似たら、鴉のお洒落に終わるでしょう。
(虚子にも「凡そ天下に去来ほどの小さき墓に参りけり」十三・七・五があります。)
∪〇劼気鵑魯優奪半紊任眇裕いあり、その作品を載せたサイトも多いです。私が拾い集めただけでも百句近くあります。その中の半分くらいは字余り句ですが、七・七・七はありません。一般の俳句入門書にも字余りに触れたものは多いですが、七・七・七の例は見覚えがありません。三節同数では、俳句らしいリズム感が得られないせいでしょうか。

☆季語が重なると良くないといわれますが、何故ですか。(狛犬)
「眼に青葉山不如帰初鰹」など季語が三つも並んでいるのにもかかわらず、有名な句です。有名な句必ずしも良い句では無いと言うことですか。
個人的には季語を重ねることにより、その季節の雰囲気をいやが上にも強調し盛り上げており、なかなか良い句だと思うのですが。


☆泰二のコメント。
季重なりの問題ですね。
基本的には、その句の作る世界が統一されていれば良いのです。
季語はそれ自身が主題となるか、主題と強く結び付くので、不用意に複数の季語を使うと句の世界が割れてしまいかねません。一つの季語が主題を示し、他の季語はそれを支えるように使えば、問題はないと思います。
「揚羽蝶九月の樹間透きとほり」
「雪山に春の夕焼滝をなす」
「炎天の巌の裸子やはらかし」(飯田龍太「百戸の渓」より)

実際には、そのサークル・結社の指導者の作句理念に依ります。このブログに発表するだけなら、句の主題が分裂しない範囲で、自由にやってください。もっとも、それで、その句を受け入れるか、拒否するかは、これも読み手の自由なのですが。
私の考えは、このブログの3月7日「季語は炊き込みの具」、3月8日「季語のオーラ」に述べてあります。

御提示の句ですが、正しくは「目には青葉山郭公はつ鰹」です。芭蕉の先輩に当たる山口素堂の作です。私にはコマーシャルコピーのような印象です。

このような質問、大歓迎です。どしどしお寄せください。(泰二)
taiji-m * 季語について * 10:43 * comments(4) * trackbacks(0)

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コメント

泰二先生

★字余り・字足らず〜定型についての質問です。
句集などを読んでいると、字余りの句を目にしますが、
それより多く七・七・五や五・七・七の句を見かけるように思います。

「フルーツポンチのチェリー可愛いや先ずよける」(七・七・五)
「戦争がいつも何処かに青いか地球」(五・七・七)
いづれも池田澄子さんの句集「たましいの話」より引きました。

私の知っている俳句は極僅かですが、なぜか七・七・七は見かけたことがないように思います。
この辺りについて、お話をうかがえたらと思います。


★いろいろな方から、情報やご意見を頂いた詞華集「現代の俳句」、先日近所の本屋に出した注文の答えが十日経ちようやく返ってきました。
「絶版にはなっていないが、在庫が無い状態。増版する予定も今はない。」とのことでした。
書籍の販売の仕組みについては無知なのですが、
書店の店主さんはいくつかのルートを当たってくれたそうです。
と言うわけで、この本は古書で手に入れるか、図書館で検索をかけるしか、読む方法はないようです。
本探しの旅はもう少し続きそうです。
(楽譜でもこういうことがあります。)

追伸:アサツキの花は生まれて初めて見ました。上品な紫色の花で驚きました。ネギのように葱坊主にはならないのですよね。クレソンの花も可憐な。奥日光の流れにはクレソンが自生しているそうです。

うーむ
Comment by うーむ @ 2007/06/15 3:04 AM
過日友達が「ジェイブック」で検索して本を探して入手したそうです。参考になればと思いコメントさせて頂きました。http://www.jbook.co.jp/index.asp   白い鴉より

Comment by 白い鴉 @ 2007/06/22 5:11 PM
お恥ずかしいのですが、勇気を出して質問させていただきます。先に七五ができる場合があります。(私にとっては身にしみる事実)次に困るのは上五の季語(今では夏)のことです。たとえば夏の雲、夏の花その他何をおいても一応俳句としておさまってしまいます。その場合動く句と批評されます。私には実感があるのにという不満が残り、また私はまだまだ俳句という詩を理解できていないのではと悩みます。思い切ってその俳句は捨ててしまうほうがよいのでしょうか?
Comment by けいこ @ 2007/06/22 8:54 PM
季語についてお伺いします

紫陽花を七変化としないほうがいいと句会の先生に

言われたがどうなんでしょうかご教授下さい

泰二先生へ    烟水
Comment by 烟水 @ 2007/06/29 10:50 AM
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