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季語の本意



 写真は「クサカゲロウ」。この卵が「優曇華」です。
 幼虫が「蟻地獄」なのは「ウスバカゲロウ」。親類ですが、別のものです。




 ☆予告☆
 次回のブログ句会は9月1日、出題です。
 お楽しみにお待ちください。

<「残暑」は「暑し」ではない。>
 この前お話した「ぬかご」のメール句会、9回目をやりました。題は「残暑」「新酒」「桃」。どれも難しい題でしたが、ここでは話を「残暑」に絞ります。
「残暑」あるいは「秋暑」は、「暑さ」と重なりがあります。ことに今年のように、立秋過ぎて暑さが厳しいと「酷暑」のイメージさえあります。しかし、季語としての「残暑」「秋暑」は「暑さ」「酷暑」とは別の情感があるはずです。
次の句は、出句46句の中の一部ですが、この中に「残暑」・「秋暑」を「暑さ」「酷暑」とごっちゃにしている句がないでしょうか?
A秋暑し日の斑の遊ぶ男坂
B秋暑し売り出しの旗垂れしまま
C秋暑し厨に残る酢の匂ひ 
D夫と居る昼の静けさ秋暑し
E秋暑し観音巡る九十九折り
Fすりきれしブックカバーや秋暑し
G鉛筆の芯折れ易き残暑かな
H狂ひ咲く八重山吹の秋暑かな
I飼猫のじっと目を閉づ残暑かな
「暑さ」・「酷暑」と置き換えても成り立つ、あるいは、その方が句が活きる、それだったら、「残暑」の題詠としては??ですね。
季語の本意を掴むこと、本意を活かして作句すること、心掛けたいものです。
taiji-m * 季語について * 21:32 * comments(0) * trackbacks(0)

俳句なんでも、Q&A。

写真は「クレソンの花」。クレソンを食べるのは、花の咲かないうちなので、花を見ることは珍しいと思います。前々回の「アサツキの花」に続く《あんまり見ない花シリーズ》です。

<ブログが欠伸してます。>
ブログ句会を始めてから、句会関係以外ののコメントが、ほとんど無くなりました。句会から次の句会までの二か月間、開店休業状態で、ブログが欠伸をしそうです。
そこで、「俳句教室」の本来に立ち返り、 「質問なんでも受け付けます」の看板を掲げようと思います。皆さん、遠慮や引っ込み思案を捨てて、俳句について、なんでも質問してください。待っています。

 ◎上の看板を掲げたところ、早速、質問があり、三件になりましたので、この頁にまとめてみました。(さらに追加一件あり。)(☆またまた、追加あり。)(さらに追加あり。)(七件目の追加あり。)


☆句会の先生から、「紫陽花を『七変化』ともいうが、これは俳句には用いないように」と言われました。そうなのでしょうか?(烟水)

☆泰二のコメント
ご質問を二つに分けて考えてみます。
 句会の先生、あるいは結社の主宰から「俳句ではOOしなさい」「XXしてはいけません」と言われたらどうするか?
A、先生が、頑固、陰険、または権威主義的な人の時。
その件に付いて、反論は勿論、質問もしない方が身のためです。疑問に感じ、間違いだろうと思っても、先生の前では「はい」と言って、それを守りましょう。その先生の目の届かないところで、自由な詠み方をすればいいでしょう。
B、先生が開放的で拘りのない人柄の時。
大いに質問しましょう。「なぜそうなのか教えてください」「虚子に〜という句がありますが、それはいいのですか?」「もし『七変化』と詠んでいいときがあればどうゆう場合ですか?」。先生はあなたの積極性を高く評価してくれるでしょう。
季語「紫陽花」には、傍題として「四葩(ヨヒラ)」、「七変化(シチヘンゲ)」があるが、これらを句に詠むときの注意は?
初心者は、「あぢさゐ」は4音、「よひら」は3音、「しちへんげ」は5音という音数によって、都合の良いものを使おうとします。先生はこれを戒めたのでしょう。
こういう時は歳時記の例句を見るのが定石です。何冊か歳時記を見ると、例句の殆どが「あぢさゐ」で、「よひら」が一句くらい、「しちへんげ」は殆どありません。だから、普通なら「紫陽花」で詠み、特別な感じを出したければ「四葩」を使う。
「七」とか「変化」の意味を活かしたい特殊なときだけ「七変化」にする。というのが無難なところでしょう。
(広辞苑では、「七変化」は「ランタナ」のことと出ています。やはり、使わぬ方がいいようです。)

☆よく「季語」が動くと言われます。その場合どうしたらいいでしょう。(けいこ)
私は先に季語以外の部分が出来、そこへ季語を選んで付けるという作り方をよくします。その句が季語が動くと批評されることがあります。私には実感があるのにという不満が残ります。どうしたらいいでしょう。


☆泰二のコメント。
岸本尚毅は、「どんな季語を据えるかは作者が決断するしかないのです。その句にどんな季語がふさわしいかは理屈では決まりません」と言っています。私も、一般的に、こうしたらいいという方法はないと思います。
ただ、こうすると失敗するという場合は挙げられます。
,△觀平Г鮓て句が浮かんだ場合、その場に在ったものを季語として入れる。こういう人は「季語が動く」と批判されると、「だって実際見た通りなのだから」と居直ります。
⇒屈で結び付くもの、常識で連想されるものを季語にする。例えば、「天高し槌音響き棟上る」のように、「棟」のように高いものに対して「天」、「棟上げ」に相応しく「晴天」、「音響く」に対して「秋の澄んだ空気」というわけで、「天高し」はボンド付けしたくらい、動かない季語である。しかし、句はまったく面白味がない。
けいこさんの季語の付け方がこの´△任覆ったら、一週間くらいその句を放っておいていくらか客観的に読めるようになってから、見直して決めるといいでしょう。


☆「三段切れ」はいけないと言われました。「三段切れ」について教えてください。(そよ風)

☆泰二のコメント。
「切れ」の問題は、俳句の前身の前身、室町時代の「連歌」からありましたが、それを話すと長くなるので、省略。
いきなり結論からお話しましょう。
俳句が長年作り続けられた中で「すきっリとして、しかも、しっかりした読み応えがある句」の定石が見つかりました。「一句のどこか一箇所にだけ[切り]を入れる」という法則です。
「切れ」がないと、句に締まりがありません。二箇所以上切れると、句がギクシャクし、焦点も割れます。という訳で、 「三段切れ」どころか、「二段切れ」もバツ!なのです。(この「二段切れ」の代表が「〜や〜かな」です。)
これで一応お終いなのですが、実作では、そうすっきりとはゆきません。これ、また、複雑な問題をはらむのですが、ここでは、初歩的、実用的な三点を挙げます。
〔昌譴老擇だ擇譴魎兇犬気擦襪里任垢、切れているとも、流れているとも感じられ、最後は作者の感覚次第というところです。どちらとも、自分に都合良く考えていい場合が多いです。
∪擇貉「や」の切れは、昔は強く意識されました。だから上五や中七で「〜や」を使ったら下五は「止めぬよう、流れるように」詠んだのです。
「香水やまぬがれがたく老けたまひ・後藤夜半」
また、上の,鰺用して、名詞で軽く流します。
「秋たつや川瀬にまじる風の音・飯田蛇笏」
しかし、実は、「や」があるのに下五を動詞などの終止形で終わっている例が多数あります。
「春風や闘志いだきて丘に立つ・高浜虚子」
これは、「や」の切れの意識が弱くなったことと動詞などの終止形に強い切れを感じなくなったことが関係していると思います。
実用的には「や」に対して下五の結びは「かな」・「けり」以外なんでもOKというのが実情です。
2叱泙髻屐舛な」で止める場合、途中で「切り」を入れない方がよい。これは、実作でも、かなり広く守られていますので、やらない方がいいでしょう。


☆季語の漢字についてお教えください。(ウーフ)
 片影と片陰、片蔭の使い分けがよく分かりません。
 合本俳句歳時記第三版(角川書店編)には、片蔭、日陰、片かげり、しか掲載されていませんが、片影を用いた有名俳人の句はあるのでしょうか。


☆泰二のコメント
今まで、私は、なんとなく、「影」は形で「陰」は場所、くらいに思ってました。
ご質問を受け、早速調べてみました。
日本語で「かげ」は、元は「光」。それから、「光によって表れる物の形」となり、「水面や鏡に映る物の形」、さらに「物が光を遮ることによって出来る形」となったようです。
漢字の「影」は古くは「景」で、これは「日光」。これが日本語と同様に「物が光を遮ることで出来る形」の意味にも使われ、両者を区別するために、後者は「影」と書くようになりました。
「陰」は「山の北側の日の当たらない方」の意。それから、「日の当たらない暗い場所」の意味になりました。
「蔭」は「陰」+「草」で、「茂った草の陰」の意味ですが、「陰」とほとんど同じに使われるようです。
「翳」もありますが、抽象的、心理的な意味で人目の届かぬところを表すようです。

ここで、俳句の「かたかげ」の話になります。これは、「夏の日差しを避けられる場所」の意味が強いので、「片陰」が正解でしょう。「片蔭」も同意です。例句のほとんどはこのどちらかです。
「片影」は、やはり意味が通りにくいので用例は少なく、私の見かけたのは沢木欣一の一句だけでした。
「緑イン」の場合、広辞苑では「緑陰」ですが、歳時記では全て「緑蔭」です。これは「蔭」が「草の陰」なので、木々の陰である緑蔭に相応しいからでしょう。

ご質問のお蔭で、私も勉強になりました。

☆字余り、字足らずについて教えてください。(白い鴉)
中7の字余りは良いが、字足らずはいけないと聞きましたが、どの程度まで許されるのですか?上五、下五についても教えてください。


☆泰二のコメント
まず、基本からお話します。
五・七・五の定型は、字数でなく音数だと言われます。もう少し突き詰めて言えば、発音のリズムなのだと思います。口ずさんで気持ち良く収まれば良いのです。(指を折って数えているようでは駄目です。口ずさんでリズムを感じ取る習慣を付けてください。)しかしこの「気持ち良さ」には個人差があるので、作者によって違いが出ます。中村草田男のように、言いたい思いの方を優先して定型の崩れも敢えて冒す作家もあります。
江戸時代、談林派は目新しさを重んじたので、字余りが横行しました。芭蕉も若いころ「艪の声波を打って腸凍る夜や涙」とか「枯枝に鴉のとまりたるや秋の暮れ」(後に「とまりけり」とした。)とかやっています。後に「詩としての俳諧」を自覚するにつれ定型に収まってゆきます。

次に、実際的な対応です。(初級編)
字足らずは、一切やらない方がいいです。
字余りも出来るだけやらないに越したことはありません。どうしても余るときは、上五に持ってゆくのが無難です。(ただし、最後が助詞の字余りは不可です。例「五月闇の」「青葉潮に」)
一番、収まりの悪いのは、中七の字余りです。これは禁じ手です。

☆字余り・字足らず〜定型についての質問です。(うーむ)
|單沈〇劼気鵑龍臀検屬燭泙靴い力叩廚砲六余りの句が多く、中には上七や下七の句も見かけます。
「フルーツポンチのチェリー可愛いや先ずよける」(七・七・五)
「戦争がいつも何処かに青いか地球」(五・七・七)
このような字余りをどうお思いですか。
∋笋涼里辰討い詛亢腓篭剖呂ですが、七・七・七は見かけたことがないように思います。なぜでしょう。


☆泰二のコメント。
|單沈〇劼気鵑亙務覆任后澄子さんは、その発想からして尋常ではないので、それを支えるリズムも尋常では表現が収まらないのでしょう。字余りだけでなく、字足らず、句跨りも多いです。
「新聞と新聞紙の秋の暮」五・六・五
「原爆落とされし日の屋上の望遠鏡 」十一・五・六
「先生ありがとうございました冬日ひとつ」四・十一・六
学ぶべきは、その発想の飛躍で、それを抜きに、句形の字余りだけを真似たら、鴉のお洒落に終わるでしょう。
(虚子にも「凡そ天下に去来ほどの小さき墓に参りけり」十三・七・五があります。)
∪〇劼気鵑魯優奪半紊任眇裕いあり、その作品を載せたサイトも多いです。私が拾い集めただけでも百句近くあります。その中の半分くらいは字余り句ですが、七・七・七はありません。一般の俳句入門書にも字余りに触れたものは多いですが、七・七・七の例は見覚えがありません。三節同数では、俳句らしいリズム感が得られないせいでしょうか。

☆季語が重なると良くないといわれますが、何故ですか。(狛犬)
「眼に青葉山不如帰初鰹」など季語が三つも並んでいるのにもかかわらず、有名な句です。有名な句必ずしも良い句では無いと言うことですか。
個人的には季語を重ねることにより、その季節の雰囲気をいやが上にも強調し盛り上げており、なかなか良い句だと思うのですが。


☆泰二のコメント。
季重なりの問題ですね。
基本的には、その句の作る世界が統一されていれば良いのです。
季語はそれ自身が主題となるか、主題と強く結び付くので、不用意に複数の季語を使うと句の世界が割れてしまいかねません。一つの季語が主題を示し、他の季語はそれを支えるように使えば、問題はないと思います。
「揚羽蝶九月の樹間透きとほり」
「雪山に春の夕焼滝をなす」
「炎天の巌の裸子やはらかし」(飯田龍太「百戸の渓」より)

実際には、そのサークル・結社の指導者の作句理念に依ります。このブログに発表するだけなら、句の主題が分裂しない範囲で、自由にやってください。もっとも、それで、その句を受け入れるか、拒否するかは、これも読み手の自由なのですが。
私の考えは、このブログの3月7日「季語は炊き込みの具」、3月8日「季語のオーラ」に述べてあります。

御提示の句ですが、正しくは「目には青葉山郭公はつ鰹」です。芭蕉の先輩に当たる山口素堂の作です。私にはコマーシャルコピーのような印象です。

このような質問、大歓迎です。どしどしお寄せください。(泰二)
taiji-m * 季語について * 10:43 * comments(4) * trackbacks(0)

季語の虚実

上の写真は、青虫(柚坊)から飼育して羽化させた揚羽蝶です。「揚羽蝶」は季語としては夏季です。
 句に使う季語はその時、実際にその場で見たものでなければ、いけないのでしょうか?
 皆吉爽雨は「写生の第一歩は、嘘を言わず正直に写すことだ。鴉が二羽いたら二羽と言うべきだ。句の面白さを狙って一羽とか三羽とかにするような己がはからいは捨てよ」と言います。
 一方、水原秋桜子は自作「濯ぎ場に紫陽花うつり十二橋」の現場を弟子が確かめに行って、額紫陽花があったという報告をしたことを、「自分にとって句の紫陽花が幻影であっても差し支えはないのだ」と評しました。森澄雄は自作「雁や胎中といふ山の村」について「実際に咲いていたのは撫子だったので、初案は『撫子や』だったが、『タイナカ』という地名とひびきが合わないので、『雁や』とした」と言っています。
 私自身は、このブログで言ってきたように「季語は一句のムードを決定するもの」と思っているので、その句の内容、その句に託する自分の思いに合う季語を選びます。例えその場に無かったものでも。
 「ボタン屋のボタンの数の夜長かな(泰二)」。 実際は昼間見た情景でした。


  △上記の句中の季語。「紫陽花」=夏。「雁」=秋。「撫子」=秋。「夜長」=秋。

◎投句、コメントは、この下の「comments」をクリックし、出てくるコメント送信用の画面に記入し、送信してください。

◎新しい方から投句がありました。
<投句・けいこさん>
A別れきて春夕焼けのほかは見ず
B春荒れや一合の米といでをり
C春塵を拭きつつ日差し拭いてをり
D草萌えや空にふんはり白くじら
E鳥帰るいつ止まりしか掛時計
<感想・泰二>
けいこさんの句、どれもすばらしいです。本格的にかなり長年俳句に取り組んでいらっしゃった方と思います。私は特にA・Bがいいと思いました。
A、季語「春夕焼」の働きで、別れた親しい方への愛惜の情がよく出ています。一つだけ欲を言えば、「は」は特に取り上げる気持ちを出す助詞なので、全体に情の強い表現の中では、少し押さえて「を」くらいにしたらと思います。
B、中七下五は他でも見たことのある表現です。しかし季語の「春荒れ」がいいです。物悲しい中に幾分の余裕があります。
C、床の春の埃を拭いているうちに、床の日差しの方に心が向いていたという、対象の飛躍が面白いです。しかし、この面白がり方は、理知に偏っているので、読者は心底共感とはなりにくいと思います。
D、中七下五は「雲」だと思います。そうすると「雲」を「鯨」に見立てた句ということで、その面白さだけで終わってしまいます。ひょっとすると本当に鯨かと思われるくらい断定的に詠んだらどうでしょうか。「ふんはり」は不要となるでしょう。
E、中七下五の「掛時計」は古いタイプのぜんまいを巻く振り子時計を連想させます。それと「鳥帰る」の取り合わせはいいですね。ただ「いつ止まりしか」という疑問の形は作者の気持ちを強く出してしまうので、「いつか止まりし」と状態を述べただけの形のほうが無難だと思います。
 いろいろ言いましたが、かなり贅沢な注文で、どれも元の句のままで、十分優れた句と思います。
taiji-m * 季語について * 16:16 * comments(3) * trackbacks(0)

季語のオーラ

 季語はオーラを発します。そのオーラの光は、一句の隅々まで差し込み沁み込みます。写真の句を例に挙げて説明しましょう。
 「永き日の郵便局の老眼鏡」。 「永き日」 は春の季語で、晴れた日の午後ののんびりした気分があります。このオーラが射すので、「郵便局」は地元の顔見知りのアットホームな感じになります。「老眼鏡」も優しい心遣いの表れとして、気持ちのいいものになります。
 「よな降るや郵便局の老眼鏡」。季語を取り替えてみました。「よな」は黄砂です。中国大陸の砂漠からやってくる粉塵です。( 「よな降る」も春の季語です。)このオーラが射すと、「郵便局」は薄暗い違和感のある場所になります。「老眼鏡」もこれを掛けなければならない老いの憂鬱を表しているように感じられます。
 季語一つで、句の内容がこんなに変ってしまいます。これは季語のオーラのせいなのです。
<季語、昼と夜の長さ>
 「永き日」は春の季語で、「日永(ヒナガ)」「遅日(チジツ)」とも使います。冬は「短日(タンジツ)」「日短し」です。夏は「短夜(ミジカヨ)」「明け易し」で、秋は「夜長(ヨナガ)」「長夜(チョウヤ)」です。実際の昼夜の長さでなく、その前の季節からの変化を強く感じ取った名付け方ですね。

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<投句・そよ風さん>
「花馬酔木ぽんぽん菓子の音高く」
<感想・泰二>
「ぽんぽん菓子」は別名「ぽん菓子」「爆弾あられ」ですね。「馬酔木」花の粒々がぽん菓子を思い起こさせるところが面白いです。贅沢な希望を言えば、「高く」がちょっと説明くさいので、ここがなんとか解決出来るともっといいのですが・・・。

<投稿・そよ風さん>
ご指摘ありがとうございます。私も作った時から「高く」は気になっていました。
「花馬酔木ぽんぽん菓子の音空へ」ではどうでしょうか。
<感想・泰二>
俳句の定石として、「動詞を減らせ」というのは良く知られていますが、形容詞も減らせればその方がいいようです。「空へ」は上手い解決策と思います。


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taiji-m * 季語について * 18:23 * comments(5) * trackbacks(0)

季語は炊き込みの具

左の写真の句の季語は「啓蟄」 (春)です。啓蟄は冬篭りしていた地虫たちが出てくるという意味で、今の暦では三月六日になります。
 和食の達人野崎洋光さんの言葉。「油揚げとしめじを炊き込み御飯の具にする時、昆布・鰹節などの出汁は使いません。具から出汁がでるので、他の出汁は味の邪魔になります」
 俳句の季語もこれと同じだと思った。「長閑さや」とか「春の昼」と言ったら、もう「のんびり」の出汁が出ているのだから、「猫が伸びをした」とか「欠伸が出た」とか、他の出汁は味の邪魔になる。季語から出た出汁の味をすっきり生かしたいものだ。

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<投句・狛犬さん>
 「梅の花透かして見える奥座敷」
<感想・泰二> 
 季語の持っている性質を他の部分で説明する必要はありません。「梅の花」と言えば、間から透けて見える程度に咲くものというのは、読者に委ねていい部分です。この句では中七をもう一工夫してください。

<投句・うーむさん>
「沈丁花一枝分の幸ここに」
どんな時も、沈丁花を一枝活けると、あたたかい気持ちが広がります。
「春の野に息づく命幾億万」
春いっせいに命が芽生えます。この野原でさえ、どれだけの数の命があるのか、土の中にいる菌類、虫、コケ、植物、動物、最後に人、目眩がしてきます。
<感想・泰二>
前句、「ここに」が不明確です。「分」は説明くさいです。簡潔に明確に、例えば「一枝の幸活けにけり沈丁花」のように詠む工夫をしてみてください。
後句、「息づく命幾億万」は概念的・抽象的です。菌類から人間までは手を広げ過ぎでしょう。代表として「虫」を取り上げるくらいの方が、実体感があると思います。


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taiji-m * 季語について * 11:33 * comments(4) * trackbacks(0)

季語を使うと便利です。


 左の写真の句の季語は「柳の芽」 (春)です。

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<投句・狛犬さん>
「子を持ちし鴉は威嚇の声あげり」
<感想・泰二>
 「子を持ちし鴉」は間延びした言い方ですね。こういう時は季語を使うと便利です。夏の季語「親鴉」を使えば同じことを簡潔に言えます。さらに上手な季語の使い方があります。「木下闇」を使うのです。そして鴉が荒々しい声を出すと言えばいいのです。「木下闇」は夏の季語ですから、鴉の子育ては言わないでも表現されます。その上、「木下闇」で不気味な雰囲気も出せます。
 なお、「声あげり」は言葉がおかしいです。「(声)あぐる・あげる・あげし」などがいいでしょう。


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taiji-m * 季語について * 22:49 * comments(1) * trackbacks(0)

季語は必要か?

クロッカス上の写真の句の季語は「ものの芽」 (春)です。
 前回、精一さんから、「季語は必要か」という問いがありました。そのことを説明したいと思います。
 多くの結社(俳句の方では、グループを「結社」と呼びます。)は、理屈抜きに、約束事として季語を入れると決めています。「古臭い!」と嫌われそうな側面です。
 しかし、これには、千年を越える積み重ねの知恵があるのです。試しに、季語なしで、俳句を詠んでみてください。力も深みもある句を作るのは、かなり難儀です。大岡信さんの「百人百句」でも、取り上げられている無季の作者は百人中六人に過ぎません。
 特別な感性や才能を持っている人は別にして、季語を使った方が良い句が出来易いと言えるでしょう。
 季語には、芭蕉からでも三百年の積み重ねがあります。例えば「春の夜」には、芭蕉・蕪村・子規・虚子・・・が詠んだ「春の夜」の句のイメージが沈殿しています。貴方が「春の夜」と詠んだ途端、
三百年も積み重ねられてきたイメージが生き返るのです。これを使わない手はないと思います。歳時記でも、多くの例句を並べ、このイメージの積み重ねの一端を示そうとしています。

←(今朝・2月28日のクロッカスの芽)

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taiji-m * 季語について * 11:23 * comments(0) * trackbacks(0)
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